使徒と預言者

「あなたがたは使徒と預言者と言う土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。」(エペソ二・二十)

この御言葉にあるように、これからの教会には使徒と預言者の両方が絶対に必要です。両者が主の声を聞き、それぞれが違った役割を受け持ちながら、協力し合って教会を指導し、建て上げて行かねばなりません。その理由は、クリスチャンがキリストの弟子になるためには、全員が使徒的(キリストに似る者の模範者)で預言的(御声が聞ける)にならなければならないからです。

「使徒と預言者」という言葉が日本で脚光を浴びるようになってから、既に久しい年月が経ちます。最初は外国から、自分は使徒であるとか、あるいは預言者であると言う人たちがやって来て指導をした結果、確かに一部の教会では預言者訓練が普及し、しっかりした預言者、あるいは預言的指導者が立てられています。こうして今やっと出て来た預言的、使徒的な指導者たちの苦労は、先駆者の苦労です。しかしながら、現実にはほとんどの教会がこれに関しては未だよく分からないままであり、よくてもせいぜい賜物訓練の一つとして考えられている程度ではないでしょうか。日本ではまだまだ限られた人たちにしか、その必要性が現実のものとして理解されていないようです。しかし、今は考えられないようなことでも、主がすばやくことを運ばれる時が来て、使徒と預言者を含む五役者(エペソ四・十一)が教会活動の中心になる時代に移行して行きます。これは抜本的な改革であり、再編成です。終末の教会が使徒と預言者を必要とする最大の理由は、前述したように、これから一つのキリストのからだとしての教会を造り上げるためには、新しいタイプの指導者群が必要であるからです。その指導者たちは、地位による組織的権威者であると言うよりも、主から油注がれた霊的権威の持ち主です。

教会は今こそ使徒が必要

私が使徒という働きに興味を持ち始めた頃、何かもう一つよく分からないままに、それが何か魅力的な響きを持っておりました。ところが今回「キリストの弟子」について書くことを示されて、特に新約聖書を何度も読んで行くうちに、使徒とは最初の「キリストの直弟子」以外の何者でもないことに気がつかされました。それは悪い意味で言っているのではありません。私は既に申し上げたように、使徒とは特別の賜物と油注ぎを受けている人であると信じます。しかし実際にはそれは単に賜物と言って片づける以上のものであると思うのです。使徒たちが書いた書簡を何度も読むうちに、彼らのして来たこと、言っていることが、生き生きと私の胸に響いてくるようになりました。彼らの通ってきた試練の道、その患難と苦しみが大きければ大きい程、益々力と喜びを得て主に仕えた熱狂的な弟子の姿に胸を打たれました。そして行き着いたところは、そうだ、これこそイエスがこの世に来られた大きな理由の一つである、弟子を育て、神の子どもとしてふさわしい者にすることなのだという思いでした。使徒とは、自ら宣教に出て行って各地に教会を建て上げたパイオニアであり、又、戦略的プランナーでもありました。と同時に、自らが「私を見習いなさい。」と言い得た、弟子を育てた立派な指導者であったのです。彼らは、イエスが手塩にかけて育て上げた弟子中の弟子でした。そして、イエスは、弟子造りそのものを彼らに託したのでした。私はそう気がついた時に、「神の国はことばにはなく、力にあるのです。」(一コリント四・二十)とパウロが言ったように、キリストに似た者となった彼らには力があり、その力が使徒行伝となったのは当然だ、と納得がいきました。

自称、他称、本もの、偽者をとやかく言うよりも、教会は使徒的な指導者を本当に必要としていることを、この際、はっきり自覚すべきです。何故なら、第一に使徒とは私たちクリスチャンが目標とする「イエスに似た者、最もキリストに近い成熟した人」の見本であり、現実にその人を見習うことができる「イエスの型」であるからです。又、そうでなければならないと思います。第二に、使徒とは主に信頼され、常に主と密接なコミュニケーションをとっている人であり、それぞれの地域に散在する教会を主のご計画と戦略に忠実に従って指導出来る「主の代理人」であるからです。そのような人がこれからの地域教会を主のご計画に従って一致させ、まとめ上げて行く必要があります。そのような人は、黙示録十七・十四の後半に書かれているように「召された者、選ばれた者、忠実な者」です。彼らは主から特定の任務を委任され、それを遂行するだけの権威が与えられている人たちです。私たちが、たとえどのように小さな教会であっても、「キリストのからだ」として最終的に一つとなるためには、そのような指導者がこれからは特に必要です。理想的に言えば、現在の教会の主任牧師が、皆この霊的に権威を持った使徒に成熟して欲しいと思います。

総ての弟子が使徒になることを目指すべきであると思いますが、特に自分は使徒に「召されている」と確信出来る方は、ぜひ真剣に祈っていただきたいと思います。そして本当に、使徒になるための厳しい訓練が待っていることを覚悟して下さい。使徒とはどれだけの試練の中を通され、苦労と迫害を受けて苦しまなければならないか、キリストに似た者になる代価を誰よりも多く払わねばならないかを、覚悟すべきです。そして、終末の使徒も、初代教会の使徒と同じように、多くは霊的だけではなく、肉的にも迫害と言う十字架に掛けられて死ぬ、殉教者としてこの世の生涯を終わると私は思います。少なくともその覚悟が必要です。何故なら、使徒こそがキリストの後を追う忠実なフォロアーの模範的モデルであり、必然的に十字架につく者であるからです。しかし、使徒は死ぬことを最大の栄誉とし、喜んでそれを受ける人でありましょう。 〈第5章 終末の教会からの抜粋〉

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